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高坏(たかつき) 食事をしたり、神さまや亡(な)くなった人にお供(そな)えをしたりするときに、食べ物などをのせた土器(どき)です。高くて裾(すそ)の広がる脚(あし)がついています。 仁所野遺跡(にしょのいせき)出土(しゅつど)。 |
脚付異形土器(きゃくつきいぎょうどき) ほかでは出土(しゅつど)した例(れい)のない、とても変わった形をした土器(どき)です。山のような形の蓋(ふた)とセットになっています。ほとんど剥(は)がれ落ちてしまっていますが、作られたときには上に二段、下に三段、表面(ひょうめん)に粘土(ねんど)の帯(おび)が貼(は)り付けられていました。赤い色で塗(ぬ)られ、全体がしましま模様に色分けされています。これは弥生時代(やよいじだい)のお墓(はか)から出土した、お供(そな)え用の土器です。 仁所野遺跡(にしょのいせき)出土(しゅつど)。 |
長頸壺(ちょうけいこ)と器台(きだい) 長頸壺(ちょうけいこ)は、全体の形が瓢箪(ひょうたん)のようであることから、瓢形壺(ひさごがたつぼ)とも呼ばれています。底(そこ)が丸くて安定(あんてい)しないので、この壺(つぼ)だけでは立つことがでません。そのため、器台(きだい)の上にのせて使います。形は高坏(たかつき)と似ていますが、器台は壺などをのせるためのスタンドです。 仁所野遺跡(にしょのいせき)出土(しゅつど)。 |
パレス式壺(ぱれすしきつぼ) 文様(もんよう)をつけて装飾(そうしょく)し、赤い色で塗(ぬ)った華(はな)やかな土器(どき)で、尾張地方(おわりちほう)に特徴的(とくちょうてき)なものです。名前の「パレス」とは宮廷(きゅうてい)という意味(いみ)ですが、こうした土器をみた昔(むかし)の偉(えら)い考古学者(こうこがくしゃ)が、古代(こだい)ギリシャのクノッソス宮殿(きゅうでん)から出土(しゅつど)した優美(ゆうび)な土器を連想(れんそう)し、名づけました。 仁所野遺跡(にしょのいせき)出土(しゅつど)。 |
S字状口縁台付甕(エスじじょうこうえんだいつきかめ) 口の部分の断面(だんめん)が、アルファベットの「S」の字のような形をしており、これは取れてしまっていましたが、底(そこ)に台がつけられているので、こう呼ばれています。煮炊(にた)きに使われた土器(どき)なので、燃(も)やされた薪(たきぎ)の煤(すす)のために黒くなっています。まれに、ふきこぼれた料理(りょうり)が焦(こ)げついていることもあります。熱(ねつ)の伝(つた)わりかたを良くするために、とても薄く作られています。 余野(よの)4丁目にて出土(しゅつど)。 |
磨製石鏃(ませいせきぞく) 表面(ひょうめん)を磨(みが)いてなめらかにした、石でできた弓矢(ゆみや)のやじりです。森で鳥や獣(けもの)を獲(と)る狩猟(しゅりょう)や、争(あらそ)いが起(お)こったときの戦闘(せんとう)といった、実用的(じつようてき)な目的もありましたが、宝物(たからもの)としてもたいせつにされたようです。 下小口(しもおぐち)7丁目にて出土(しゅつど)。 |
石包丁(いしぼうちょう) 名前は包丁(ほうちょう)ですが、調理(ちょうり)のときに使う道具(どうぐ)ではなく、稲(いね)を収穫(しゅうかく)するときに、穂先(ほさき)を刈(か)り取るための穂摘み具(ほつみぐ)です。ふたつの孔(あな)に紐(ひも)を通して結(むす)び、その中に指を入れて石包丁を握(にぎ)って使います。水田稲作農耕(すいでんいなさくのうこう)とともに大陸(たいりく)から日本列島(にほんれっとう)に伝(つた)わって来たもので、東南(とうなん)アジアの一部(いちぶ)では、今でも同じような道具を使っているといいます。ひもや稲穂(いなほ)は現代(げんだい)のものです。 下小口(しもおぐち)7丁目にて出土(しゅつど)。 |
字内行花文鏡(じないこうかもんきょう) 小型(こがた)の青銅鏡(せいどうきょう)です。鏡(かがみ)の裏面(うらめん)には、平(ひら)べったい形のひもを通す孔である鈕(ちゅう)がまん中につけられ、その周(まわ)りに不揃(ふぞろ)いな5弁(べん)の花びらのような内行花文(ないこうかもん)があります。文様(もんよう)はぼんやりしていますが、4個(こ)の小さな円形の突起(とっき)である乳(にゅう)と字形の図文(ずもん)が交互(こうご)にみられます。日本列島内(にほんれっとうない)で作られた鏡を一般(いっぱん)に製鏡(ぼうせいきょう)あるいは倭鏡(わきょう)と呼んでいますが、弥生時代(やよいじだい)のこうした鏡の発見(はっけん)は多くありません。弥生時代の研究(けんきゅう)にも、重要(じゅうよう)な意味(いみ)がありそうです。 清水遺跡(しみずいせき)出土(しゅつど)。 |
銅鐸形銅製品(どうたくがたどうせいひん) 古代(こだい)の朝鮮半島(ちょうせんはんとう)の馬につけていた青銅製(せいどうせい)のベルが日本列島(にほんれっとう)に伝(つた)わり、お祭りの道具として大型化(おおがたか)したものが銅鐸(どうたく)です。最初(さいしょ)の頃(ころ)の銅鐸は、中に棒(ぼう)が吊(つ)り下げられていて音を鳴(な)らすことができましたが、だんだんと「聞く」ことよりも「見る」ことに価値(かち)を見いだすようになり、鳴らすことのできない大きなものも作られるようになりました。銅鐸形銅製品(どうたくがたどうせいひん)は、こうした銅鐸のミニチュアです。 神明下遺跡(しんめいしたいせき)出土(しゅつど)。 |
方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ) 土を盛(も)った中央(ちゅうおう)に穴を掘(ほ)って、亡(な)くなった人を納(おさ)めた棺(ひつぎ)を入れた、四角(しかく)い形のお墓(はか)です。大きさは一辺(いっぺん)が6m〜10m程度(ていど)のものが多く、周(まわ)りには溝(みぞ)が掘られています。溝には部分的(ぶぶんてき)に途切(とぎ)れる所があって、そこが陸橋(りっきょう)のようになり、墓の外側(そとがわ)から内側(うちがわ)に入って行けるようになっています。とくに四辺(よんぺん)のうち、一辺のまん中にだけ陸橋をもつものが、古墳時代(こふんじだい)の前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)に発展(はってん)したと推定(すいてい)されています。お墓の前ではお葬式(そうしき)を行(おこな)ったりお参(まい)りをしたとみられ、お供(そな)えされた土器(どき)が溝の中などから、たくさん出土(しゅつど)します。仁所野遺跡(にしょのいせき)で検出(けんしゅつ)されています。 |